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「ぼけても心は生きている」にこめた思い。認知症の人と家族の会が歩んできた40年

認知症の人や家族を支える団体の草分けとして、地道なネットワークを築いてきた公益社団法人「認知症の人と家族の会」(本部:京都市)。2代目の代表理事を務める鈴木森夫さんは、医療ソーシャルワーカーとして尽力した経験を生かし、会の運営に務めています。長い歴史を持つ会の歩みや、代表としての思いを聞きました。(聞き手・なかまぁる編集長 冨岡史穂)

冨岡 「認知症の人と家族の会」(以下、家族の会)は、どのような活動をしている会ですか。 

鈴木 1980年1月に京都で結成されました。地域医療に力を注がれた医師の助言から介護者同士が励まし合おうと集まったのが始まりです。当時は相談に行くところがなく、途方に暮れていた人が多かったのでしょう。京都での集まりの予告が全国紙で取り上げられ、立ち上げから全国に会員がいる組織になりました。 

冨岡 相談できる場所を待っていた人が、全国にいたということですね。

鈴木 2014年に沖縄県支部ができ、47都道府県すべてに支部がそろいました。会員数は今、1万1000人を超えています。活動は、認知症本人や家族、専門職、介護が終わった先輩らが集まって語り合う「つどい」、誰もが利用できる「電話相談」、毎月発行している「会報」の3本柱です。

スローガン「ぼけても心は生きている」に込めた思い

冨岡 ご自身は、途中から「家族の会」に加わられたのですね。

鈴木 京都の「家族の会」ができて4年目のころ、石川で病院のソーシャルワーカーをしていた32歳のときに会員になりました。高齢者が多い病院で、ご家族からの介護相談もよく受けていました。「石川県でも支部を作りたい」という呼びかけも、ご家族から声が上がって、支部結成のお手伝いをすることになりました。それから昨年まで事務局長や世話人(役員)をしてきました。

当時、認知症の人は特別養護老人ホームに入れず、在宅で介護するか、精神科に入院するか、二者択一の時代。自宅で認知症の人を看るための支援制度がほとんどなく、「家族の会」は制度づくりを国に働きかけてきました。

鈴木 介護者は介護体験を重ねる中で、認知症の人は「何もできない 、何も分からない人」ではないことを経験します。家族が認知症になって、最初は混乱することがあっても、介護の先輩から情報を得たりする中で、向き合えるようになっていきます。当時の会のスローガン「ぼけても心は生きている」には、認知症という病気に対する偏見をなくそうという思いがこめられました。

冨岡 「家族のため」の会から、本人の思いを汲んだ活動へと幅が広がりました。

鈴木 大きなきっかけは、2004年に京都で開かれた国際アルツハイマー病協会第20回国際会議で、認知症本人だった越智俊二さんが自身の気持ちを語ったこと。ここから認知症本人の発信や「本人のつどい」が全国に広がったのです。

同じ年に厚生労働省で会議が持たれ、個人の尊厳から考えても「痴呆症」はいい名称ではないということで、「認知症」に変更されました。その2年後、当会は「呆け老人をかかえる家族の会」から、今の「認知症の人と家族の会」に変わったのです。認知症本人と家族の二つの当事者を中心として歩んで行くことになったのには、大きな意味があるのです。

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